まず前置きとして、日本には「憲法学」というものがある。
グーグルは記事をリンクやキーワードの出現頻度でひとつの記事にしているというのなら、いたずらなメジャーキーワードへの迎合もまた、被リンクを濫用したり相互リンクがあるためにSEOのポイントを下げることと同じことになるだろう。
例の最近話題になっている「日本学術会議」とか、そんなのの人文系の自称学者のひとつだ。
大学の一般教養なんかには「憲法学」の講義あって、楽に単位が取れるような、くだらないものと誰もが思っていた。
海外にはこのような学問はない。
堅い言い方になるが、国民の作るはずの憲法をまるで聖典か何か経典のようにし、「解釈」をしたり、「その真意を考える」なんてものが学問になるというなら、そんな馬鹿なことはない。
それならよっぽど、グーグルというブラックボックスについてあれこれ議論し、想像を膨らませることの方が立派な「学問」になるのだと思う。
そこでこの記事では、巷に溢れるグーグルの考え方、その動向を捉えようとする推論と同じように、これを「Google学」として、読者にひとつの切り口を提供したいと思う。
今回のテーマとしては、「被リンク」というものを考えてみたい。
被リンクというものは、SEO的に重要なもののひとつだとされるが、それは巷では「互いのリンク」という風に単純に解釈している人々もいる。
一方で友達リンクや仲間内のリンクがあまりあるのもよくないという解釈もあったりする。
不正なトラフィックを生み出すものとグーグルにに睨まれ、身内での自作自演であるとしてあまり勧められないという人々もいる。
実際のところ、被リンクというのはグーグルにとってはなんだろうか。
機能的な意味で「被リンク」ということを説明すれば、それは「自分のサイトへ誰かがリンクを張っている」ということである。
誰かがリンクを張ってくれ、それがトップページや一部の記事へのトラックバックとなっていれば、そのサイトを知らない読でもリンクを辿って見に行くことが出来る。
それを検索エンジンであるグーグルから見れば、色んな人がそのサイトを有用だとみなしているという評価とできる、と、そんな風な説だ。
そしてグーグルは検索の順位をつけるのに、その被リンクがあるかどうかを見ていると言うのが一般的な解説である。
そして、これを前提にして被リンクを売っている人までいて、その被リンクがあるために、サイトの検索順位があがるのだと公言して憚らない人たちがいる。
もちろん、これは「Google学」でしかないからその真偽は分からない話だ。
これは本当だろうか。
あるいは、これには罠があって、被リンクに対するグーグルの考え方は違っているのではないか。
だから時にはマイナスになり、時にはプラスになるということはないのかか。
この被リンクというものをグーグルはどのように位置づけ、我々のサイトの有用性判定に使っているのだろうか。
第一の前提として、グーグルには日本語で我々の記事を評価する能力はないということがある。
また当然のことだが、毎日、1秒毎に数千の新しいページが立ち上がるようなネットの世界で、グーグルはひとつとして手作業で確認をすることなどできないし、してもいない。
グーグルはその手作業での確認をプログラム、アルゴリズム、AIによって判断させているに過ぎない。
つまり、グーグルはコンテンツや記事に書いてある中味は知らない、理解はしていないということだ。
「グーグル検索エンジン」とは、あくまで機械が色んな基準を元にして判断するだけであり、文章能力や表現の技術、分かりやすさなどグーグルにはまるでわからない。
しかし「キーワード」というものは機械でも抜き出すことが出来る。
機械であっても、その頻度や全体の頻度から、どれがキーワードであるかどうかは判断がつき、それが集まったものが文章を構成しているとできる。
そのキーワードの分類や分布なついても解析はでき、アルゴリズムが分かりやすいようにに数値化することもできる。
ワードサラダであるかどうかについてもだいたいは判定が出来る。
グーグルの記事(コンテンツ)分析のロジックというのは、実はごくシンプルなことだ。
すべての文章を単語と接続詞、語尾に分解して出現頻度を計測する。
それは統計的手法によって処理される。
キーワードというのは、その正規分布の真ん中から少し外れた位置にあるはずだ。
なぜなら、
文章が書かれた目的であるはずだから、その周りに修飾語や主語、多くの形容詞が取り巻いているはずだから。
なんなら第一人称の主語など辞書を使って弾いていもいい。
そうすればもっとスピーディーにひとつの記事を「分解」することができる。
これ以上は省略するが、グーグルはそうした分析をネット上の多くの記事に行って「価値ある情報=頻度の高い情報」という前提で検索結果に優越をつけてゆく。
その結果がグーグルで検索した「検索結果」だ。
なお、少なくともグーグルの「検索」というものは、自分のパソコンでやれる「全文検索」とはまったく違うものだ。
グーグルはなにも、世界中のブログやネット記事を検索し、その意味についてインデックスしたり、修正動向を日々監視しているわけではない。
それはアメリカ合衆国の諜報システム「エシュロン」がやっているかも知れないが(笑)。
つまり、グーグルで検索しても出てこない=ネットに情報がない、という意味ではない。
今は多くで誤解されているが、それはグーグルが検索市場で独占的な力があるからというだけに過ぎない、あくまで「都市伝説」である。
ともかく、そうやって記事を機械が調べて、グーグルは総合的にネットのコンテンツを評価しているのだが、それは内容を理解した上でのことでは決してない。
つまり、おかしなことではあるが、グーグルには日本語の文章はひとつも評価はできないけれども、他の記事との比較において全体としてその文章に値打ちがあるかどうかは分かるということになる。
それがグーグルのアルゴリズムである。
これは、やや飛躍した言い方をすれば、外国へ行って現地の意味不明の言語を理解しようとすることに良く似ている。
言葉はまるで理解できない土地だとしても、周囲の状況やカネのやり取り、笑顔、取り巻いている人々の数、服装、そんなことで我々はその土地が友好的かどうか、何を求めているかを知ることができたりする。
つまり言語以外の情報を使って我々はコミニュケートすることができるのだ。
グーグルも機械として様々なアルゴリズムやAIを駆使して同じことをしていて、グーグルは言語を使いながら、その意味を知ることはない。
つまり、グーグルは我々の話している言葉の意味を分からずに、それでいて、言語情報の価値についてランキングをつけているということになる。
ここまで書いてゆけば、「被リンク」というものについても、どうやってグーグルがそれを言語情報を判定するひとつの要素としていることが分かると思う。
つまり、被リンクというものは「単にリンクされているかどうか」ではないことは明らかなのだ。
それからすれば、「相互リンク」などはその本来の役割に反したものであれば逆効果となるということだ。
被リンクをグーグルが重要視するのは、バラバラで渾然となったネットの海の中で、リンクをつないだ文章を集団、ひとつのまとまりとして見ているからに他ならない。
簡単に言えば、被リンクで結ばれたものはムカデの脚や蟻の集団のように全体として捉えているということだ。
グーグルは当該の記事が、被リンクと矛盾なくつながってひとつの情報となっているという、そのキーワード構成を見ているということに他ならない。
被リンクは有機的にに(日々更新修正がされているという意味では有機的だ)、あるいは必然的に結ばれているのであって、その記事が足りないものを補うものとしての被リンクがある。
だから、記事同士の参照が「ループされる」ような、相互に補うようなキーワード構成であれば、「お互いに」有用な記事だと判定はできる。
両者の記事を照らし合わせれば有用なひとつのコンテンツであると評価される。
それがグーグルが認めるその記事の価値だ。
被リンクにする必要条件を満たしている場合はよいが、そうではない場合、自作自演のお友達リンクということになり、逆にマイナスとなる。
ネットは知識の海だ。
例えば、我々が普通に記事を書いていて、どこかに足りない情報や視点があれば、どこから知識を引いてくることができる。
そして、それがWikiなり他人の記事であれば引用し、場合によっては既成メディアのネット報道をトラックバックすることだってあるだろう。
それを辿った読者にとっては、そうした一連の被リンクやトラックバックで、全体の記事内容を構成しているということになる。
グーグルはそれを見ているということだ。
「グーグルは被リンクを記事有効性判定の要素のひとつとしている」と言う、巷で言われている推論の真実性がそこにある。
それがこの記事の結論である。
これにより結びとするなら、つまり被リンクを濫用すれば危険であるということに尽きる。
そのリンクそれた記事にキーワード上の整合性があるかどうかが重要だ。
よって、趣味に共通点のないブログをリンクさせたり、無意味に記事を相互リンクさせることは危険でSEO的には自滅行為だということにになる。
あまりベタベタと友人関係を作っても、記事のグーグルからの評価としてはあまりいいものは得られないということになる。
だから、「ごく自然に記事を書いていればよい」ということは当然の道理としても、そこで大学の卒論のように、例えば出典を明らかにしたり、引用してみたり、そうしたことをしておいた方が、友人を作るような相互リンクよりはSEOのポイントがよっぽど稼げるということになる。
詳しくは「サイテーション」というもので調べていただきたい。
簡単に言えば論文がどれだけ他の論文で引用されたり、取り沙汰されたかをポイント積算する方法のことだ。
もちろん、グーグルの検索上位になるかどうかでシノギを削ることのバカバカしさは言うまでもない。
彼らの顔色を伺って書く内容が忖度され、グーグルによる検閲の影に怯えているようでは表現としてのネットの場など意味がないことになる。
そうやって「グーグルありき」なんて風に名指しされることも、グーグルは「自己矛盾」としては嫌うことだろうがw。
ただ、「Google学」としていうなら、「被リンク」についてはグーグルは以上のような捉え方をしているのだということが推論できる。
それがしばしば、「リンクの数」とだけ表面的に捉えられてしまうために、時にはマイナスな影響となったり、プラスになったりする不安定さが生じる。
それがネットでSEOを気にする人々を常に当惑させているということでしかない。
以上が被リンクをグーグルがどう捉えているか、その結論として導き出されることだが、グーグルの被リンクを使った記事価値の判定については、それは今後も進化こそすれ変わることはないはずだ。
グーグルにとって、「被リンク」についての考え方が変わってゆくことはない。
やがてはそれはリンクしない「類似記事」の集合体も評価のポイントになってゆくだろう。
そして、それはもう始まっていることなのかも知れない。
だから、テールキーワードなどと言ったりする人が出るわけだが、そこでも同じように陥穽がある。
ボリュームの多いメジャーキーワードはそれ自体記事としてのまとまりに欠け、ポイントは低くなるのではないかということだ。
SEOを気にし、上級アフィリエイターが、簡単な解決法を探そうとするあまり、本質を誤解しているから、グーグルのスタンスが変わったと捉えるしかないのだ。
実際はそうではない。被リンクと合わせて記事全体が評価されてしまっているということだ。
ネットに友人がどれだけ多いか、相互リンクがどれだけあるかが記事の価値ではない。
むしろイタズラな関係性は記事それ自体の評価を貶める。
被リンクに頼りすぎるな、文章を練り、構成を整えよ。
それは、言葉の受け取り方を間違わなければ正当なアドバイスだろう。
そしてよく言われる、「オリジナルの文章を作れ」とは、テールだのメジャーだの、キーワードに迎合してはならないということだ。
むしろ、我々の記事は常にグーグルを裏切った方がいいとさえ言えるだろう。
そしてもう少しだけ言うならば、もしリンクするのであれば、その相手の記事にそうした価値があるかを判断すべきだ。